驚異の部屋

画像をクリックすると拡大します。

ひすとり!×驚異の部屋

ひすとり!とは、主にTwitter上で展開されている、歴史×エンタテイメントを意識したゆるやかなつながりの名称です。
参加者は東西を問わず史学の研究者から歴史を楽しむ一般の方まで様々。主催者がいるわけではなく、固定のメンバーが明確にいるわけでもない自由な空気の元に、突発的に歴史に関するあれこれのつぶやきがTwitterのTL上に発生します。
そんなひすとり!に関わる方々に自分の研究分野や興味対象をモノで表していただきsdtが絵にし、この驚異の部屋に展示しました。
「驚異の部屋」とは、大航海時代以降のヨーロッパにおいて、珍奇なものをジャンルを隔てず集め陳列する部屋のこと。王侯貴族から聖職者・学者などの手によって作られた「驚異の部屋」は、現在の博物館や美術館の原型でもあります。
この部屋に並べられたひとつひとつに、様々な背景があります。
どうぞごゆっくり、まだ見ぬ過去の世界へと、お進み下さい。

キャプション

処刑された再洗礼派指導者の遺骸を入れた三つの檻

 saisenreihaをフォローしましょう @saisenreiha

処刑された再洗礼派指導者の遺骸を入れた三つの檻

ミュンスター再洗礼派

ドイツ北西部の中心都市ミュンスターの中心部にある聖ランベルティ教会に黒々とそびえる尖塔には、三つの重々しい鉄の檻が吊されています。

この檻が教会の尖塔にかけられたのは、今から500年ほど前のことです。何故そんなことになったかを知るためには、かつてミュンスターという街で起こったヨーロッパ史上最も特異な千年王国運動について振り返る必要があります。それが、ミュンスター再洗礼派運動です。

1517年にマルティン・ルターが「95箇条の提題」を公表して以来ドイツを席巻した宗教改革の波は、ドイツ北西部の中心都市であったミュンスターにも押し寄せてきました。

しかし、ミュンスターでは、1534年に再洗礼派と呼ばれる急進派が市政を握り、彼らの君主であるミュンスター司教と1年半にわたり争うこととなりました。再洗礼派は当時危険なセクトだと見なされていましたが、その彼らが地方の中心都市を支配し、自分達の君主と戦争を繰り広げるというのは、当時の人々にとっても想像を絶することでした。

ミュンスターの再洗礼派は、ミュンスターはキリストが再臨する新しきエルサレムであると喧伝し、他の地域から多くの再洗礼派を移住させました。さらに彼らは都市の伝統的な制度を全て廃止し、財産を共有にし、一夫多妻制を導入しました。こうしてミュンスター再洗礼派は、長きに渡りミュンスター司教達と黙示録的な戦いを繰り広げたのでした。

しかし、彼らの戦いは悲惨な敗北に終わり、市内にいた男はほぼ皆殺しにされ、再洗礼派の指導者達は捕らえられました。そして1536年1月22日、再洗礼派の三人の指導者が拷問・処刑された後、その亡骸を収めた三つの檻が、聖ランベルティ教会に吊されたのです。このような忌まわしい出来事が二度と起こらないように、人々に警告するためでした。

そして1536年に聖ランベルティ教会の尖塔に吊された三つの檻は、現在もそのまま吊されています。しかし長い年月が経つ間に、ミュンスター再洗礼派運動はもはや忌まわしい事件ではなく、ミュンスターを代表する歴史的事件として街のアイデンティティの一部となり、三つの檻も、すっかり街のシンボルになっています。長い年月はその出来事が持つ意味を大きく変える、聖ランベルティ教会の尖塔にかけられた三つの檻は、そんなことを物語っているのです。