驚異の部屋

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ひすとり!×驚異の部屋

ひすとり!とは、主にTwitter上で展開されている、歴史×エンタテイメントを意識したゆるやかなつながりの名称です。
参加者は東西を問わず史学の研究者から歴史を楽しむ一般の方まで様々。主催者がいるわけではなく、固定のメンバーが明確にいるわけでもない自由な空気の元に、突発的に歴史に関するあれこれのつぶやきがTwitterのTL上に発生します。
そんなひすとり!に関わる方々に自分の研究分野や興味対象をモノで表していただきsdtが絵にし、この驚異の部屋に展示しました。
「驚異の部屋」とは、大航海時代以降のヨーロッパにおいて、珍奇なものをジャンルを隔てず集め陳列する部屋のこと。王侯貴族から聖職者・学者などの手によって作られた「驚異の部屋」は、現在の博物館や美術館の原型でもあります。
この部屋に並べられたひとつひとつに、様々な背景があります。
どうぞごゆっくり、まだ見ぬ過去の世界へと、お進み下さい。

キャプション

琵琶と小鼓 琵琶と小鼓

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書籍の行商人(の置物)

グーテンベルク以来、書物は情報伝達のための第一のメディアに躍り出ました。独占物たる知識の拡散。それが書物の果たした役割の一つです。書物は18世紀、啓蒙の時代の到来とともに更なる飛躍をはたします。

オーストリアでは、かの有名な女帝マリア・テレジアが初等教育制度を整え、識字率も少しだけ改善(したはず)。さらに革新的啓蒙専制君主ヨーゼフ二世は検閲を緩め、出版の自由の拡大を演出。そこでウィーンでは安価なパンフレットの大ブームが起きました。小間使いから教皇訪問、はたまた堅い政治問題まであらゆる時事ネタを扱いながら、時には従順に時には反抗的にウィーンの出版業界は活気づいたのでした。

でも、この大流行のパンフレット、「一日で書き上げられ、二日目に読まれ、三日目には忘れ去られてしまう」と評されてしまうメディアでもありました。(Aloys Blumauer, Beobachtung über Östereichs Aufklärung und Literatur, S. 8.)それでも、当時のウィーンの文人達の間では、民衆啓蒙にはパンフレットこそが役に立つのだなんて議論もなされていたわけですが。

えーっと、行商人がでてきていない? いやいや、いくら啓蒙の時代といえども危険な書物は店先で堂々と売りづらいですよね(もちろん、裏で売っている書籍商もいたのですが)。書物の行商人はいわゆる禁書も取り扱ったりしていました。今でもウィーンではカフェに新聞(Augustinとか)の売り子が現れたりしますよね。18世紀でもああいう感じで行商人は売り歩いていたことでしょう。

この行商行為、当然政府にとっては極めて危険なものでした。そういうわけで、出版の自由を認めたヨーゼフ二世の時代でも行商に関してはたびたび禁止令がでていたりするわけです。ドイツ語圏の書物の歴史はあまり日本で紹介されていないのですが(フランスの事例はけっこう出版されてますよね)、とても面白いですよ。

近世の死刑に用いられた車輪

現在は死刑が廃止されているオーストリアでも、18世紀マリア・テレジアの時代にはまだ死刑は現役でした。しかも公開で。

1769年に出版されたハプスブルク初のテレジア刑法典では、軽重二種類の死刑を用意していました。軽い方は斬首刑です。そして重い死刑として挙げられているのが、その一、火炙りの刑、その二、四つ裂き刑、その三、頭部からの車輪刑および足下からの車輪刑でした。
いわゆる重い死刑には他にも溺死刑や皮剥刑、生埋め刑、磔刑などがあるわけですが、オーストリアでは一般的ではなく刑法典でもこれらの刑は将来にわたっておこなわないと言明してあります。

さて、それでは車輪刑とはなんぞやという話をしてみましょう。簡単に説明すれば、受刑者を大きな車輪に縛り付け、もう一つの車輪を打ち付けることで処刑するという極めて残酷な刑罰でした。斬首は一瞬で済むけれど、車輪刑はそうはいきません。そして、すでに述べたとおり、オーストリアには二種類の車輪刑がありました。頭部からと足下から。どちらが重い刑罰だったのでしょうか。もうお気づきになった方もいらっしゃるかもしれません。足下からの車輪刑のほうが重かったのでした。というのも、頭部からなら最初に絶命するので苦痛は短期間で済みますが、足下からの場合は頭が砕かれるまでの間、長期にわたって苦痛を味わなければならないからです。

しかし、これだけでは済みません。極悪な犯罪者のためには更なるオプションを追加することが許されていました。死体をさらしたり、あるいは執行前に市内を引き回しながら、体の一部を串刺してみたりなんてオプションが。そう、死刑は民衆にとって一種の娯楽でした。政府も死刑を公開することで犯罪抑止を期待していましたし、場合によっては慈悲深い皇帝の恩赦を披露する場にもなりました。このテレジア刑法典、発布直後から啓蒙の時代とはとても思えない残酷な刑罰を設定していると大反発を受けてしまいました。しかし、1787年、ヨーゼフ二世が新しい刑法典を出版し、原則的に死刑を廃止するまで、車輪刑は生きながらえたのでした。具体的なお話もしたいところですが、あまり長文になってしまうのも問題でしょうから、その話はまた別の機会にということで。

ちなみに死刑に使われた車輪は、ウィーンの拷問博物館でも見ることができます。
この拷問博物館はもともと第2次世界大戦中に使用されていた防空壕を利用して作られています。そんなに大した展示ではないですが、興味がある方は是非。住所はFoltermuseum, Fritz-Grünbaum-Platz 1, 1060 Wien。入場料6ユーロです。ドイツ語のページですがもっと詳しい情報が欲しい方はホームページhttp://www.folter.at/をご覧ください。